「不完全である勇気」とはアドラー心理学でよく言われる考え方です。でも、それは本当に「不完全である勇気」ですか?海外駐在ママのライフデザイン湯本レイナです。

 

「不完全である勇気」を逃げに使っていないか

「不完全である勇気」とは

何かをするときに、完璧を追い求めすぎて一歩が踏み出せない。もっと上手くなってから、もっと色々と学んで知識を増やしてから、もっとキレイになってから、、、。先延ばしにしていても、「その時」というのはなかなか来ないものです。

現時点で100%完璧・理想のカタチでなくとも、自身が今やれるだけのことをやったのであれば、それを人前でアウトプットするなり、実践で使うなりして、勇気をもって一歩前に進む。

そうすることで、フィードバックをもらってさらに良くなる点が見えてきたり、それがきっかけでさらに大きな舞台でアウトプットができるチャンスを提示されたりするかもしれない。

もし今の状態がまだ不完全だと思っているとしても、必要以上に自分を卑下したり、必要以上に自分を大きく見せたりすることなく、ありのままの自分で出してみる。

そんなことを「不完全である勇気」と言っていると私は解釈しています。

とことん追求するということ

一方、会社などでもよく言われますが、お客さま目線で徹底的に使いやすさを追求するとか、お客さまのニーズを徹底的に洗い出すとか、これらもとても大事なことだと思います。

サービスや商品の提供側が一度カタチづくったらこれで完璧、と思い込むことほど怖いものはなく、何度も何度も問いかけ、練り直す。そんな過程があるからこそ「イイもの」が出来上がる。では、この【徹底的に】というのをどこまでやるのか。

不完全である=ありのままの自分を認めること

阿久津大樹さんと共催しているアナ雪でアドラー心理学をもっと知ろうの会でも出てきますが、「ありのままでいる」=「そのままでいい」というわけではないということですね。

不完全である自分は今のありのままの自分である。そんな自分を認めて外に出していくけれども、そのままでいいと思っているわけではない。力の及ぶ限り、時間の許す限り、【徹底的に】ベストを尽くすことありきで「不完全である勇気」を持つものだと思うんです。

ちょっと言葉がキツイですが、「不完全である勇気」と言ってまだ出来ることがあるのにやらないのは、「逃げ」に利用しているだけなのではないか。自戒を込めて書いてみました。