誰でも、ニガテな人、ちょっと嫌だなぁと思う人っていると思います。その人との関わり方で悩んだことってないですか?

エッセンシャルな人生を送る女性が夢・想いをどんどん叶えていく「わたしらしい幸せ」ライフエディター湯本レイナです。

どんな人からも学べる、そして共存できる

距離をとればイイとはわかっていても

誰でも1人や2人はいるであろう、ニガテなタイプの人、ちょっと嫌だなぁと思う人。そんな人とはどのように接したり関わったりしますか?一般的には「ちょっと距離をおいて」「自分が心地よい感覚で」お付き合いをすればよいとされているでしょうし、その通りだと思います。

でも、どうしても距離が近くなることもあるかと思います。

例えば、先日子どもの運動会がありまして、狭い敷地の小学校ゆえ、観覧席も十分にないので、競技をしている学年の保護者優先で順次譲り合うというルールがあるのですが、そのルールを守らない保護者に出くわすとき、なんだかイイ気分ではいられない自分もいます。

例えば、先日学びを深めに行った場で、同じ受講生として受講されてる中のお1人が非常に特徴ある方で、私は苦手なタイプの方でした。この場合は別に自分に危害を与えうるわけではないにも関わらず、あまり近づきたくないなと感じました。

この事実をどう意味づけ・学びとするか

その瞬間は嫌だなぁというネガティブな気持ちがわくのですが、少し時間をおいたり、そこから離れて景色を変えたりするとまた違った見方があらわれます。

運動会の優先席を占拠していた方は、持ち物を手放せない=自身に余裕がない人なんだ、と解釈しました。毎年この手の方に出くわすので、正直運動会を迎える前は憂鬱に思うこともありますが、今年は「息子が小学校最後の運動会を楽しむ」ことに向けようと心がけていました。ある意味、自分がそのことばかり考えるとそれを引き寄せるかもしれないと思ったからです。実際、当日その手のタイプの方はやっぱりいて、その事実自体を排除できませんでしたが、逆にどんな人に出くわしても自分はそこに振り回されないし、そのことを糧に出来ると思いました。

学びの場のニガテなタイプの受講生の方に関しても、その方の個性が特徴的であるということは「フツーである勇気がない」と解釈できますし、虚勢を張っているように見えれば見えるほど、彼女自身に守らなければならない弱い部分が見えてきます。

そしてニガテだなぁとその方に注目しているということは、何かしら私自身の中にも彼女を通じて課題があるのかもしれませんよね。だからこそ、自分は関わる人には「心を開いた状態」でいたいと思いましたし、「フツーである」勇気を持っているようにしたいと感じました。

そして共存への道

アドラー心理学で言う「共同体感覚」とはこのような感じではないかなと思うのです。似た価値観の人のみならず、多種多様な価値観の自立した個人が集まって、お互いに協力したり貢献し合ったりする感覚。

その時相手が、自分にとって「え?!」という価値観・行動をしたとしても、それをニュートラルに受けとめ、学びの糧とすることが出来れば、どんな人とも【共存】していくことができるのではないかと思っています。

より寛容になること。それが共存の最初の一歩なのでしょうね。

湯本レイナご提供メニュー ≫