「〇〇であるべき」「〇〇であらねば」と、強い価値観やルールにしばられて苦しくなる場合、「どっちでもイイ」を選択できると随分とラクになります。でも「どっちでもイイ」って、自分軸がないのでは?自分ってものを持ってない人になるのでは?と思う方もいらっしゃるかもしれません。今日はそんな「どっちでもイイ」についてお話ししたいと思います。
エッセンシャルな人生を送る女性が夢・想いをどんどん叶えていく「わたしらしい幸せ」ライフエディター湯本レイナです。
中庸である勇気を持つ「どっちでもイイ」
子どもの頃から培ってきた大事な価値観
子どもは成長過程において、関わりがあった大人からの影響、住んでいた文化の影響などを受けて、「自分はこうあるべき」「こうした方がいい」という価値観や判断基準を身につけて大きくなります。
例えば「時間は絶対に守るべき」という強いルールがある家で育った場合、大人になってからも時間厳守が絶対的なルールとなって自分や他人を裁く基準となります。時間厳守のために、自分に対しては他と比べてやたら時間の余裕をもった行動をしたり、他人が若干遅れて到着するととても不機嫌になったり。
「時間を絶対に守るべき」というルールのおかげで、その人は周りの人に「あの人はいつも時間通りにいる人=ちゃんとした人=信頼できる人」という印象を与えられて、特に何もしていなくても”信頼できる存在”としていられるメリットを享受しているかもしれません。
でも同時に「守るべき」という信念のために、自分や他人に厳しすぎて、自己肯定感が低くなったり、人間関係が崩れたりするきっかけになっているかもしれません。
誰もが「そうだよね」と思う価値観でさえも・・・
この「時間を守る」というのは、守った方が集団生活を行う際にスムーズに事が進みますし、誰もが「そうした方がいいよね」と思うルールです。「他人に迷惑をかけないように」とか「他人を尊重する」とか、私たちアドラー心理学を学ぶ者にとっては「ヨコの関係を大事にする」とか、これら皆「イイ」価値観なはずです。
でも、そこに固執しすぎる、「〇〇すべき」が強すぎるようになると、自分や他人を苦しめることになりうるのですね。湯本自身もそうだったのですが、ヨコの関係でいることは万人にとって幸せなことだと思っていたので、それを強く握りしめていると、ヨコの関係の真逆である「タテの関係=上下関係」の人に対して強い嫌悪感を持つようになりました。不満があふれ、話を聞いてくれる人に愚痴を言うようになりました。
「ヨコの関係」を大切にすることは、人をしあわせにしてくれるもの、だと思っていたのに、そのことによって自分も相手もイヤな気分になる結果となってしまったのです。
「どっちでもイイ」を受け入れられる勇気を
人は、このように「光」と思える価値観や基準を追い求める傾向があります。「こうあるべき」「〇〇しないと」「〇〇せねば」と、絶対的に”イイ”と思われる光り輝く先に向かってそれを追い求めていく・・・。でも実はそれって、今自分が持っているものを否定していることでもあるんですよね。
いわゆる自分の「影」の部分にフタをして封じ込めようとしている。
光が「時間厳守」であれば、影は「のんびり」とか「ぐ~たら」とか「自由気ままに」とかをやりたい自分も本当はいる。光が「ヨコの関係」であれば、影は「(タテの関係として)物事を教えて諭したい」「影響力がある人物になりたい」などの自分も本当はいる。
でもそれらを押し殺して、周りから評価がもらえるための手段、より”生きやすく”なるための手段として、光の自分になろうとしているんですよね。
そこで、この「光」と「影」が対立するのではなく、融合して同じ方向を向いて協力できるように、ニュートラルな立ち位置を見つけていきたい。それが結果的には「どっちでもイイ」と思えるスタンスなのです。
「時間通りに来てもイイし、多少遅刻してもイイ」(もちろん大きな遅刻が毎回で支障をきたすようであればまた別の問題ですが)。「ヨコの関係が持てたらそれもイイし、時にタテの関係になったとしてもそれもイイ」(もちろんタテの関係による弊害があるほど極端であればまた別の問題ですが)。
そんな風にどちらに偏るもなく、中立・中庸でいることが、ものごとを視野広く眺めることができる立ち位置ですし、そのことによってより多くの人に寛容にもなれます。
どっちでもイイからこそ「意志」が問われる
何かの選択を迫られた時に「どっちでもイイ」というのは、一見、「自分がない」「軸がない」と思われがちです。でも実は逆に、「どっちでもイイ」は「自分」をしっかり持つことが求められるスタンスであると考えます。
どちらかの考え方(光か影か)に強く傾倒するというのは、その価値観・判断基準のチカラに任せっきりで、「自分」がないとも言えます。「時間厳守」も「ヨコの関係」も、それ自体の強いチカラを武器に自分を一生懸命に守ろうとしている=「自分」や「自分の軸」に自信がない証拠、でもあるかと思うのです。
これらの誰がどう見ても良いとされる価値観や判断基準でさえも「どっちでもイイ」と言える時こそ、自分自身は今どうする?という「意志」が問われる時であり、自分も他人も大事にしていく寛容さを養う時。「何でもいいよ」という放棄や逃げとは異なる、「どっちでもイイからこそ、今自分はこういう考えでいる」というより能動的な選択ができると思うのです。
極端に良い子になるのでもなく、極端に悪い子になるのでもなく、「フツーである勇気」もまた同じように、一見どっちつかずでハッキリしないと見えるけれども、本当に勇気がいるのは「フツーである」ことの方ですしね。